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偶然にも同じ日に、山の信仰に関する2冊の本を頂きました。

1冊目は、日本山岳修験学会会長の鈴木正崇氏の『山岳信仰―日本文化の根底を探る』です。序章「山岳信仰とは何か」で山岳信仰について概説し、第1章から第8章まで、出羽三山・大峯山・英彦山・富士山・立山・恐山・木曽御嶽山・石鎚山など、日本の有名霊山について記述しています。英彦山の所にむろん宝満山も出てきます。

宝満山についてはもう一冊の立正大学教授時枝努氏の『霊場の考古学』に、より多くの記述があります。宝満山ばかりでなく第2部第6章宋人造営の経塚と霊場では、首羅山など福岡周辺の山々について述べ、終章「霊場の考古学」の課題では、宝満山に於ける先進的な考古学調査の事例や、宝満山弘有の会とも縁の深い九州山岳霊場遺跡研究会のことについても触れています。

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(鈴木正崇著『山岳信仰―日本文化の根底を探る』中公新書2310 定価880円)

 

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(時枝努著『霊場の考古学』高志書院選書11定価2500円)

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 (採燈大護摩供 於:竈門神社)

 

宝満二十五坊

 宝満山には盛時370の坊があったと伝えられています。そのうち300坊は学問を専らにした「衆徒方(しゅとがた)」、70坊は修行を専らにした「行者方」といわれました。

 度重なる戦乱に坊は没落し、江戸時代には行者方の25坊のみが残り「宝満二十五坊」と呼ばれました。

 現在キャンプセンターがあるところは、「座主(ざす)跡」ともいいますが、ここに宝満山伏のトップ「座主楞伽院(りょうがいん)」があり、その下の東院(とういん)谷に16坊、百段ガンギの両側に展開する西院(さいいん)谷に9つの坊がありました。

坊は寺であり、山伏の住まいであり、その家族や弟子たちも住んでいました。また上宮(じょうぐう)参拝や七窟巡りなどをする信者の宿泊施設でもありました。

 

中宮跡

 山伏(修験者)は、山で厳しい修行をすることによって仏の子として生まれ変わり、人々を救う存在になることを目指しました。

 宝満山の修験道の中心道場は中宮跡にありました。中宮付近には、仏を表す梵字を彫った巨岩がいくつかあります。それらに刻まれた年号は、鎌倉時代末のものがほとんどです。つまりこの頃、宝満山に本格的に修験道が導入され、中宮が開発されたものと考えられます。

 明治維新の神仏分離、修験道の廃止によって、今は広場となっている中宮跡ですが、かつては大講堂や神楽堂、鐘撞堂が建ち並び、法螺貝や錫杖の音、読経の声も響いていたことでしょう。

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 (法螺貝を吹く山伏)

 

金剛界と胎蔵界

 修験道の本尊は大日如来です。大日如来が罪深い衆生を教化するために変身されたお姿が不動明王なのです。ですから山伏の修行は何時もお不動さんと共にあります。

 大日如来には金剛界(こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)という相対する二つの世界があります。金剛界曼荼羅(まんだら)は、九つの区画に区切られた仏の世界で、大日如来の智的構成を示し、金剛不壊(ふえ)といわれる堅固な悟りや智恵を表しています。金剛界は陽であり、父であります。

 胎蔵界曼荼羅は、八葉(はちよう)の蓮華の中央に座す大日如来を中心に仏の世界が波紋のように広がります。現象界の理法を表し、母の慈悲を表しています。

宝満修験の峰入り

 宝満山は金剛界の山、一方の胎蔵界は英彦山です。

 両山の距離は130㎞、その間に「四十八宿(しじゅうはっしゅく)」という礼拝する場所が置かれました。宿は神社やお寺、お堂もありますが、巨岩や巨木、泉など自然の聖なる場所もありました。最も重要な宿は小石原の深仙宿(じんぜんしゅく)で、両界の境目となる重要な行場でした。

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(小石原深仙宿 行者堂と護摩壇)

 

 宝満山と英彦山の間の入峰道は697年に役行者が開いたと伝え、また役行者は701年に再来し、宗像の孔大寺山を胎蔵界とする三部習合之峯を開いたとも伝えています。

 しかし実際の所、宝満山から大根地山、夜須高原の五玉(いつたま)神社、古処山(こしょさん)、屏山(へいざん)、馬見山、嘉麻峠、不動岳、二又山を経て小石原深仙宿に入り、糸ヶ峰の難所を越えて、愛法窟での出生潅頂、さらに大日岳、釈迦岳、岳滅(がくめき)岳から彦山に至る峰道が開かれたのは平安末期頃、団体での入峰行が行われるようになったのは鎌倉時代以降、この地で修験道が盛んになったのは蒙古襲来が大きな契機と考えられます。

 宝満山-彦山間の入峰は「大峯」といわれ、宝満山伏は秋峰として行い、彦山山伏は春峰、夏峰の二季、入峰修行しました。

 宝満山の修験道は獅子流と言われ、入峰修行の中心道場は獅子宿(ししのしゅく)といわれました。この宿は峰々を隔てて、英彦山の備宿(そなえじゅく)と向き合っていました。獅子宿はキャンプセンター水場の下にありましたが、明治維新で修験道が廃止されると谷底に突き落とされたと伝えられています。

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(不動岳での峰中護摩)

 

 宝満山-孔大寺山間の入峰は「葛城(かつらぎのみね)」といわれ春峰修行として行われました。

 宝満山を出ると三郡縦走の峰道を若杉山に至り、久山の首羅山から犬鳴山へ。西山連峰は東に下り、峰に戻っては西に下り、また峰に戻るという苦行をしながら靡山(なびきやま)から釈迦岳、戸田山、孔大寺へ至ります。帰路は宗像の鐘崎から宗像大社、香椎宮、筥崎宮など有名所をまわり、博多では櫛田神社で町人のために、福岡城に入っては藩主のために護摩祈祷をしました。

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(宝満修験の入峰コース)

 

 春峰は、座主一世に一代の入峰であり、大がかりな入峰で、デモンストレーション的な要素もあったためか、多くの史料や入峰絵巻などが遺されています。

 春秋の峰入りの他に、夏に「大巡行(おおめぐりぎょう)」が行われました。昼は東院谷の薬師堂で写経や読経をし、夜間、宝満山中の拝所に花(樒(しきみ)の枝)を供えてまわるのです。「天台の修法(すほう)」とも「心蓮の遺法」ともいわれます。

 大巡行では薬師堂から女道を通り大南窟まで下り、そこから一気に中宮に登って、山名の由来ともいわれる竃門岩(かまどいわ)、馬蹄岩、そして上宮を拝し、仏頂山(ぶっちょうざん)の心蓮上人のお墓で日の出を迎えるのです。この行ではまた、季節柄、凶作を引き起こす害虫除けの祈祷もなされました。

 明治のはじめ山伏は山を追われますが、昭和57(1982)年、心蓮上人の1300年遠忌(おんき)を記念して宝満山修験会が結成され、入峰、採大護摩(さいとうだいごまく)が復活し、毎年5月の第2日曜日に入峰、最終日曜日に採燈大護摩供が行われています。

 また、宝満山開創1350年を記念して、平成25年に、明治維新以来途絶えていた英彦山への峰入りも再興しました。

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(入峰 開山心蓮上人の墓に詣でる)

山中には五井七窟と言われる修行で使われたとされる秘所、

五つの井戸、七つの岩屋の窟が点在しています。

五井は水害で崩壊したり、場所が不明だったりする場所もありますが

七窟は現在でも全ての窟が現存していて、実際に足を踏み入れる事ができます。

先週、一日で七窟を回ってきましたのでルートを振り返ってみたいと思います。

 

1、福城窟

正面登山道(男道)8合目の先で「益影の井」の分岐を右に谷沿いに下った場所にあります。

 

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2、宝塔窟(伝教大師窟)

正面登山道中宮跡の先の分岐を羅漢道に向かい、羅漢道のルートを進むと看板があり。窟は右方面に少し登った所にあります

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3、釜蓋窟

宝満山から三郡山への縦走路へと向かい、仏頂山の手前をうさぎ道の方に進みます。

200~300メートル程進んだ地点で登山道を逸れ、赤テープを頼りに左側の尾根を少し下った地点にあります。

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4、普池の窟

猫谷川新道の8合目あたりにあります。

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5、剣の窟

猫谷川新道の上部にあります。つりぶね岩を下に回りこんだ地点です。

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6、法城窟

キャンプセンターから女道を下ってる途中に右手に登山道を逸れます。古い看板の案内があります

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7、大南窟

かもしか旧道から登ってたどり着く方法とかもしか新道から下って至る方法がありますが危険を伴う箇所もありますので、細心の注意が必要です。

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最後にGPSデータをもとに全体のおおよその位置を記します。

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最後に・・

七窟めぐりは一度に全部をまわるとなるとルートを把握できていても

普通に宝満山に登る倍位の体力が必要です。

さらに、登山道を外れる箇所もありますので道迷い、遭難、滑落等の危険が高くなります。

できれば最初は経験者の人と一緒に行っていただければと思います。

宝満山弘有の会でも秋ごろに七窟ツアーを企画したいと思っています!

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宝満川と宝満山 写真:栗原隆司『祈りの山宝満山』海鳥社 2011年より

 宝満山は、北に流れ、福岡平野を潤し博多湾に注ぐ御笠川、南に流れ、筑紫平野を潤し有明海に注ぐ宝満川の水源の山です。この山のご祭神玉依姫命は水分(みくまり)の神としても信仰されてきました。

 水分の神として有名な吉野水分神社にも玉依姫命が祭られていて、ここは古来「子守明神」として藤原道長など都の貴族から庶民に至るまで多くの人々の信仰を受けてきました。ミクマリが訛ってミコモリとなったといわれますが、稲を育み、実りをもたらすことが、子供を授け健やかな成長を守ることに通じるのだと日本人は考えてきたのです。 

 宝満山の行事でもっともよく知られている「十六詣り」は、16歳になった男女が4月16日(または8日)に宝満山に登り、上宮でお祓いを受け、男は一生金銭に困らないように、女は「良縁を得ますように」と祈った行事ですが、戦後、学制の改革や成人年齢が20歳になった事、村の組織の崩壊などによって次第に行われなくなりました。

 昔、十六詣りで上宮に参拝すると、オミクジを引き、その中に入れられた金玉1個、銀玉2個を引き当てると「幸運を得る」などともいわれました。また稚児落としの断崖の岩間の木に「縁結びのコヨリ」を結びつけると願いが叶うともいわれました。

 太宰府の桜町区で聞いたお話では、「半世紀前頃まで旧暦4月8日、16歳の者が連れだって宝満詣りをした。女は、真新しい久留米の紅絣の短着に赤い腰巻き、黒の手甲・脚絆に紅白のアトガケのついた竹皮の草履をはき、新しい手ぬぐいを被ったおそろいの装束で登った。上宮にお参りした帰りには、シャクナゲの枝に糸のついた丸いオコシを下げたものをいくつも持って帰り、宝満詣りの祝をくれた親戚に配った。女の子達は、この時着た着物を、そのまま洗濯せずにとっておいて、田植えの時にそれを着て早乙女になった。男の子は8日・9日と二晩続く若者組の春籠りに、酒一升・肴一鉢を持参、親が付き添って組み入り(大人の仲間入り)をし、女も招かれて加勢をしながら二日間を楽しんだ」ということです。

 十六詣りが成人を祝うとともに、稲作にとっても重要な行事であったことを物語っています。山の神を乙女の着物やシャクナゲの枝に依憑(よりつ)かせて田に迎えるというもので、宝満の神様が「水分」の神であり「御子守」の神であることを偲ぶことが出来ます。

 4月8日は花祭りで、寺院ではお釈迦様の誕生日として灌仏会(かんぶつえ)などが行われますが、民間では「卯月八日(うづきようか)」の春山入りを行い、山の神をツツジやシャクナゲ、藤などの花木に宿らせ、里に帰って田の神とする行事が広く行われていました。また「卯月八日の初山(はつやま)入り」といって、その年に成人した少年・少女を連れて山に入ることも各地で行われていました。

 十六詣りが何時始まったものかは明らかではありませんが、東院谷の薬師堂の近くに「愛敬岩(あいけいのいわ)」という高さ2メートルほどの岩があり、『筑前国続風土記附録』に「眼を閉て此岩に行当る時は、人の愛敬を得る故に此名あり」と記されています。江戸時代すでに、この岩で恋占いをしていたのですね。十六詣りで上宮に縁結びを祈った少女たちの戯れででもあったのでしょうか。

 十六詣りには、険しい山を登りきることが「成人の証」とされるという意味もありますが、吉野の玉依姫と同様に、宝満山の玉依姫も、子を授け、その成長をお守りくださる神様。無事成長したことを宝満の神様に奉告し御礼を言い、そしてさらに「良いご縁を得ることが出来ますように」と祈る行事なのです。タマヨリヒメ様はその御名の通り、魂と魂を寄りつける神様でもあるのです。

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吉野水分神社(奈良県吉野山)

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 今から1300年ほど前、天武天皇の時代、心蓮というお坊さんが樒(しきみ)という植物と閼伽水(あかすい)をもって毎日宝満山で修行をしていました。白鳳2年2月10日午前8時頃、山、谷が震動し、何とも言えない良い香りが漂ってきたかと思うと、花びら舞う中に美しい貴婦人が現れました。貴婦人は「私は玉依姫です。この国を守り、人々が平和で安らかにくらすことができるよう、この山に長年止まっているのです」と言ったかと思うと、忽ち雲霧が巻き起こり、貴婦人は金剛神に姿を変えて九頭の龍馬に乗り、十神を従えて、空を飛び回ったのです。

 このことに驚いた心蓮上人は、大宰府に申し出、この報告をお聞きになった天皇は、御社を建て「宝満宮」と号すようにとお命じになりました。

 上宮のすぐ下に、馬蹄岩という岩がありますが、この岩にはこの時の龍馬の足跡が遺っているといいます。(宝満山の縁起より)

 江戸時代の文政2年(1819)、博多聖福寺の仙厓和尚はこの岩に

 玉姫降神 則山谷鳴震動/心蓮登座 則天華飛繽紛

と自作の偈を彫りつけました。また仙厓和尚は九合目にある竃門岩の一石に「仙竈」と大書しました。二つの事を成し遂げた仙厓和尚は、その気持ちを

 烟たつかまどの山の緋桜は香飯の国の贈る春風 

と言う歌に込めました。

 

 宝満山弘有の会では、宝満山のご神木「緋桜」にちなんで3月の最終日曜日に緋桜会を開催することとしました。第一回の開催日3月29日は旧暦2月10日。まさに玉依姫様がご示現なさった日です。この不思議な偶然に神様のご意向を感じます。

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