• 2015年05月登録記事


本日の大護摩供のレポートです。

 

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大護摩供は宝満山修験会による神事で、
人々の願いを書いた護摩木を護摩壇に投げ入れ、
修験道によって除災招福を祈るもの。

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希望者は護摩木を購入して、
家内安全などの願い事と名前、数え年を記入して渡します。

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拝殿での護摩供奉納奉告祭と筑前琵琶「竈門山」の奉納が終わると、
下方からほら貝の音が聞こえ、
階段を山伏とお稚児さんが上ってきます。


始まりは山伏問答から。

問に答えなければ中に入ることは許されません。

 

修験の修とは験とはいかに?

修験道の開祖はいかに?

大護摩供とはいかに?

などの問に的確に返答する山伏。

そして「ひとつひとつ違いなし。しからばお通り候らえ」と許されます。

 

その後、法弓、法剣、法斧の壇作法が行われます。

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いよいよ護摩壇に御神火が燈されます。

 

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周囲を囲む山伏たちが一斉に読経し、
太鼓と錫杖を鳴らすと、あたりは独特の雰囲気に包まれます。

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やがてその声と音に力を得たかのように黄色味を帯びた煙が勢いを増し、
生き物のように捻じれ、地を這い、
そして天へ上っていきます。

 

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やわらかな綿のような煙ですが、火山の噴煙のようでもあり、
竜巻のようでもあります。

 

護摩壇を覆っていたヒバが燃え尽きると中の火と丸太の枠が見えてきます。

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煙に替わって、今度は炎が燃え上がります。

 

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そこに護摩木を投げ入れていきます。

炎の熱の中で人々の願いも天に上っていくようです。

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護摩木をすべて焚き終えると組まれていた丸太が解体され、

火生三昧(火渡り)の準備をします。

 

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まだ火種があり、熱い中を山伏が火渡りをし、
その後、長蛇をなして並んでいた一般の人々もこれに続きます。

無事渡り終えると御札をいただきます。

 

巨大な煙と炎に自然への畏怖も感じる大護摩供。

俗世を生きる人々の願いを、読経のカタルシスの中で自然と融合させ昇華させるような行事でした。

(前野りりえ)

 

 

 

偶然にも同じ日に、山の信仰に関する2冊の本を頂きました。

1冊目は、日本山岳修験学会会長の鈴木正崇氏の『山岳信仰―日本文化の根底を探る』です。序章「山岳信仰とは何か」で山岳信仰について概説し、第1章から第8章まで、出羽三山・大峯山・英彦山・富士山・立山・恐山・木曽御嶽山・石鎚山など、日本の有名霊山について記述しています。英彦山の所にむろん宝満山も出てきます。

宝満山についてはもう一冊の立正大学教授時枝努氏の『霊場の考古学』に、より多くの記述があります。宝満山ばかりでなく第2部第6章宋人造営の経塚と霊場では、首羅山など福岡周辺の山々について述べ、終章「霊場の考古学」の課題では、宝満山に於ける先進的な考古学調査の事例や、宝満山弘有の会とも縁の深い九州山岳霊場遺跡研究会のことについても触れています。

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(鈴木正崇著『山岳信仰―日本文化の根底を探る』中公新書2310 定価880円)

 

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(時枝努著『霊場の考古学』高志書院選書11定価2500円)

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 (採燈大護摩供 於:竈門神社)

 

宝満二十五坊

 宝満山には盛時370の坊があったと伝えられています。そのうち300坊は学問を専らにした「衆徒方(しゅとがた)」、70坊は修行を専らにした「行者方」といわれました。

 度重なる戦乱に坊は没落し、江戸時代には行者方の25坊のみが残り「宝満二十五坊」と呼ばれました。

 現在キャンプセンターがあるところは、「座主(ざす)跡」ともいいますが、ここに宝満山伏のトップ「座主楞伽院(りょうがいん)」があり、その下の東院(とういん)谷に16坊、百段ガンギの両側に展開する西院(さいいん)谷に9つの坊がありました。

坊は寺であり、山伏の住まいであり、その家族や弟子たちも住んでいました。また上宮(じょうぐう)参拝や七窟巡りなどをする信者の宿泊施設でもありました。

 

中宮跡

 山伏(修験者)は、山で厳しい修行をすることによって仏の子として生まれ変わり、人々を救う存在になることを目指しました。

 宝満山の修験道の中心道場は中宮跡にありました。中宮付近には、仏を表す梵字を彫った巨岩がいくつかあります。それらに刻まれた年号は、鎌倉時代末のものがほとんどです。つまりこの頃、宝満山に本格的に修験道が導入され、中宮が開発されたものと考えられます。

 明治維新の神仏分離、修験道の廃止によって、今は広場となっている中宮跡ですが、かつては大講堂や神楽堂、鐘撞堂が建ち並び、法螺貝や錫杖の音、読経の声も響いていたことでしょう。

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 (法螺貝を吹く山伏)

 

金剛界と胎蔵界

 修験道の本尊は大日如来です。大日如来が罪深い衆生を教化するために変身されたお姿が不動明王なのです。ですから山伏の修行は何時もお不動さんと共にあります。

 大日如来には金剛界(こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)という相対する二つの世界があります。金剛界曼荼羅(まんだら)は、九つの区画に区切られた仏の世界で、大日如来の智的構成を示し、金剛不壊(ふえ)といわれる堅固な悟りや智恵を表しています。金剛界は陽であり、父であります。

 胎蔵界曼荼羅は、八葉(はちよう)の蓮華の中央に座す大日如来を中心に仏の世界が波紋のように広がります。現象界の理法を表し、母の慈悲を表しています。

宝満修験の峰入り

 宝満山は金剛界の山、一方の胎蔵界は英彦山です。

 両山の距離は130㎞、その間に「四十八宿(しじゅうはっしゅく)」という礼拝する場所が置かれました。宿は神社やお寺、お堂もありますが、巨岩や巨木、泉など自然の聖なる場所もありました。最も重要な宿は小石原の深仙宿(じんぜんしゅく)で、両界の境目となる重要な行場でした。

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(小石原深仙宿 行者堂と護摩壇)

 

 宝満山と英彦山の間の入峰道は697年に役行者が開いたと伝え、また役行者は701年に再来し、宗像の孔大寺山を胎蔵界とする三部習合之峯を開いたとも伝えています。

 しかし実際の所、宝満山から大根地山、夜須高原の五玉(いつたま)神社、古処山(こしょさん)、屏山(へいざん)、馬見山、嘉麻峠、不動岳、二又山を経て小石原深仙宿に入り、糸ヶ峰の難所を越えて、愛法窟での出生潅頂、さらに大日岳、釈迦岳、岳滅(がくめき)岳から彦山に至る峰道が開かれたのは平安末期頃、団体での入峰行が行われるようになったのは鎌倉時代以降、この地で修験道が盛んになったのは蒙古襲来が大きな契機と考えられます。

 宝満山-彦山間の入峰は「大峯」といわれ、宝満山伏は秋峰として行い、彦山山伏は春峰、夏峰の二季、入峰修行しました。

 宝満山の修験道は獅子流と言われ、入峰修行の中心道場は獅子宿(ししのしゅく)といわれました。この宿は峰々を隔てて、英彦山の備宿(そなえじゅく)と向き合っていました。獅子宿はキャンプセンター水場の下にありましたが、明治維新で修験道が廃止されると谷底に突き落とされたと伝えられています。

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(不動岳での峰中護摩)

 

 宝満山-孔大寺山間の入峰は「葛城(かつらぎのみね)」といわれ春峰修行として行われました。

 宝満山を出ると三郡縦走の峰道を若杉山に至り、久山の首羅山から犬鳴山へ。西山連峰は東に下り、峰に戻っては西に下り、また峰に戻るという苦行をしながら靡山(なびきやま)から釈迦岳、戸田山、孔大寺へ至ります。帰路は宗像の鐘崎から宗像大社、香椎宮、筥崎宮など有名所をまわり、博多では櫛田神社で町人のために、福岡城に入っては藩主のために護摩祈祷をしました。

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(宝満修験の入峰コース)

 

 春峰は、座主一世に一代の入峰であり、大がかりな入峰で、デモンストレーション的な要素もあったためか、多くの史料や入峰絵巻などが遺されています。

 春秋の峰入りの他に、夏に「大巡行(おおめぐりぎょう)」が行われました。昼は東院谷の薬師堂で写経や読経をし、夜間、宝満山中の拝所に花(樒(しきみ)の枝)を供えてまわるのです。「天台の修法(すほう)」とも「心蓮の遺法」ともいわれます。

 大巡行では薬師堂から女道を通り大南窟まで下り、そこから一気に中宮に登って、山名の由来ともいわれる竃門岩(かまどいわ)、馬蹄岩、そして上宮を拝し、仏頂山(ぶっちょうざん)の心蓮上人のお墓で日の出を迎えるのです。この行ではまた、季節柄、凶作を引き起こす害虫除けの祈祷もなされました。

 明治のはじめ山伏は山を追われますが、昭和57(1982)年、心蓮上人の1300年遠忌(おんき)を記念して宝満山修験会が結成され、入峰、採大護摩(さいとうだいごまく)が復活し、毎年5月の第2日曜日に入峰、最終日曜日に採燈大護摩供が行われています。

 また、宝満山開創1350年を記念して、平成25年に、明治維新以来途絶えていた英彦山への峰入りも再興しました。

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(入峰 開山心蓮上人の墓に詣でる)