
宝満川と宝満山 写真:栗原隆司『祈りの山宝満山』海鳥社 2011年より
宝満山は、北に流れ、福岡平野を潤し博多湾に注ぐ御笠川、南に流れ、筑紫平野を潤し有明海に注ぐ宝満川の水源の山です。この山のご祭神玉依姫命は水分(みくまり)の神としても信仰されてきました。
水分の神として有名な吉野水分神社にも玉依姫命が祭られていて、ここは古来「子守明神」として藤原道長など都の貴族から庶民に至るまで多くの人々の信仰を受けてきました。ミクマリが訛ってミコモリとなったといわれますが、稲を育み、実りをもたらすことが、子供を授け健やかな成長を守ることに通じるのだと日本人は考えてきたのです。
宝満山の行事でもっともよく知られている「十六詣り」は、16歳になった男女が4月16日(または8日)に宝満山に登り、上宮でお祓いを受け、男は一生金銭に困らないように、女は「良縁を得ますように」と祈った行事ですが、戦後、学制の改革や成人年齢が20歳になった事、村の組織の崩壊などによって次第に行われなくなりました。
昔、十六詣りで上宮に参拝すると、オミクジを引き、その中に入れられた金玉1個、銀玉2個を引き当てると「幸運を得る」などともいわれました。また稚児落としの断崖の岩間の木に「縁結びのコヨリ」を結びつけると願いが叶うともいわれました。
太宰府の桜町区で聞いたお話では、「半世紀前頃まで旧暦4月8日、16歳の者が連れだって宝満詣りをした。女は、真新しい久留米の紅絣の短着に赤い腰巻き、黒の手甲・脚絆に紅白のアトガケのついた竹皮の草履をはき、新しい手ぬぐいを被ったおそろいの装束で登った。上宮にお参りした帰りには、シャクナゲの枝に糸のついた丸いオコシを下げたものをいくつも持って帰り、宝満詣りの祝をくれた親戚に配った。女の子達は、この時着た着物を、そのまま洗濯せずにとっておいて、田植えの時にそれを着て早乙女になった。男の子は8日・9日と二晩続く若者組の春籠りに、酒一升・肴一鉢を持参、親が付き添って組み入り(大人の仲間入り)をし、女も招かれて加勢をしながら二日間を楽しんだ」ということです。
十六詣りが成人を祝うとともに、稲作にとっても重要な行事であったことを物語っています。山の神を乙女の着物やシャクナゲの枝に依憑(よりつ)かせて田に迎えるというもので、宝満の神様が「水分」の神であり「御子守」の神であることを偲ぶことが出来ます。
4月8日は花祭りで、寺院ではお釈迦様の誕生日として灌仏会(かんぶつえ)などが行われますが、民間では「卯月八日(うづきようか)」の春山入りを行い、山の神をツツジやシャクナゲ、藤などの花木に宿らせ、里に帰って田の神とする行事が広く行われていました。また「卯月八日の初山(はつやま)入り」といって、その年に成人した少年・少女を連れて山に入ることも各地で行われていました。
十六詣りが何時始まったものかは明らかではありませんが、東院谷の薬師堂の近くに「愛敬岩(あいけいのいわ)」という高さ2メートルほどの岩があり、『筑前国続風土記附録』に「眼を閉て此岩に行当る時は、人の愛敬を得る故に此名あり」と記されています。江戸時代すでに、この岩で恋占いをしていたのですね。十六詣りで上宮に縁結びを祈った少女たちの戯れででもあったのでしょうか。
十六詣りには、険しい山を登りきることが「成人の証」とされるという意味もありますが、吉野の玉依姫と同様に、宝満山の玉依姫も、子を授け、その成長をお守りくださる神様。無事成長したことを宝満の神様に奉告し御礼を言い、そしてさらに「良いご縁を得ることが出来ますように」と祈る行事なのです。タマヨリヒメ様はその御名の通り、魂と魂を寄りつける神様でもあるのです。

吉野水分神社(奈良県吉野山)