宝満山国史跡指定10年 宝満山弘有の会10周年記念事業  

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🗻 150年ぶり峰入りを復活させた山伏たち

ザ 修験道ドキュメンタリー映写会 & 英彦山入峰を語る

1月27日(土) 14時~16時

 

コ-ディネ-タ-:森弘子 福岡県文化財保護審議会会長「ザ 修験道」監修

パネラー: 大岡良明   竈門山奥ノ坊 寶照院副住職

               尾登 憲治   「ザ 修験道」制作監督

               土肥 和弘   「ザ 修験道」撮影助手

               山村 信栄    太宰府市文化財課課長

150年ぶりに英彦山への峰入りを復活させた宝満山修験会のドキュメンタリー映写会。

入峰同行者が10年前の道のりをふりかえります。

場所 太宰府館まほろばホール3F  太宰府市 宰府3-2-3       

参加費 500円   

参加者 100名  先着順

後援:太宰府市教育委員会      

 

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 宝満修験の峰入り

 宝満山は金剛界の山、一方の胎蔵界は英彦山です。

 両山の距離は130㎞、その間に「四十八宿(しじゅうはっしゅく)」という礼拝する場所が置かれました。宿は神社やお寺、お堂もありますが、巨岩や巨木、泉など自然の聖なる場所もありました。最も重要な宿は小石原の深仙宿(じんぜんしゅく)で、両界の境目となる重要な行場でした。20150508_03.JPG

 (小石原深仙宿 行者堂と護摩壇) 

宝満山と英彦山の間の入峰道は697年に役行者が開いたと伝え、また役行者は701年に再来し、宗像の孔大寺山を胎蔵界とする三部習合之峯を開いたとも伝えています。

 しかし実際の所、宝満山から大根地山、夜須高原の五玉(いつたま)神社、古処山(こしょさん)、屏山(へいざん)、馬見山、嘉麻峠、不動岳、二又山を経て小石原深仙宿に入り、糸ヶ峰の難所を越えて、愛法窟での出生潅頂、さらに大日岳、釈迦岳、岳滅(がくめき)岳から彦山に至る峰道が開かれたのは平安末期頃、団体での入峰行が行われるようになったのは鎌倉時代以降、この地で修験道が盛んになったのは蒙古襲来が大きな契機と考えられます。

 宝満山-彦山間の入峰は「大峯」といわれ、宝満山伏は秋峰として行い、彦山山伏は春峰、夏峰の二季、入峰修行しました。

 宝満山の修験道は獅子流と言われ、入峰修行の中心道場は獅子宿(ししのしゅく)といわれました。この宿は峰々を隔てて、英彦山の備宿(そなえじゅく)と向き合っていました。獅子宿はキャンプセンター水場の下にありましたが、明治維新で修験道が廃止されると谷底に突き落とされたと伝えられています。

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(不動岳での峰中護摩)

■宝満山から彦山(英彦山)への峰入(みねい)り
太宰府市の北東にある宝満山は、我が国を代表する山岳信仰の遺跡として重要であることが認められ、平成25(2013)年10月17日の官報告示で国の史跡となり、本年で10年を迎えます。
この信仰の山は尾根伝いで他の信仰の山や祭祀が行われた寺社とつながりを持ち、中世から近世にかけては修験道(しゅげんどう)を専らとする山伏たちが、その間を往来する「峰入(みねい)り」と称する行事をおこなっていました。春には宝満山を出て三郡(さんぐん)山や若杉山(わかすぎ)を経て宗像の孔大寺(こだいし)山、玄界灘に面する織幡(おりはた)宮、香椎宮、筥崎宮から福岡城を経由し、高宮宮、春日神社、武蔵寺(ぶぞうじ)、安楽寺天満宮を通って宝満山に戻るルートで葛城(かつらぎ)峰(春峰(はるみね))と呼ばれていました。秋には宝満山を出て大根地(おおねじ)山、古処(こしょ)山、屏(へい)山、馬見(うまみ)山、小石原深山(こいしわらしんせん)宿、大日岳を経て彦山(ひこさん)(江戸時代以降は英彦山(ひこさん))に至り、帰りは筑豊の里を辿って宝満山に戻るルートで大峰(おおみね)(秋峰(あきみね))と呼ばれていました。
宝満山と彦山は九州での修験道の2大聖地とされ、彦山の山伏は春峰の行事として宝満山まで峰入りをして2つの山は修験道によって結びつきを持っていました。宝満山と彦山の間は全長約130kmで、往路75kmは峰から峰への険しい尾根路で72日をかけて勤行(ごんぎょう)や行(ぎょう)を山頂などの要所や聖地とされる場所で繰り返しおこない、帰路は里の道を3日で帰っていました。宝満山の中宮跡にある梵字磨崖(ぼんじまがい)仏の銘文に文保2年(1318)の年号があり、「法眼幸栄(ほうがんこうえい)十六度」と彫られており、16度の入峰(にゅうぶ)をした数とされています。宝満山と他所をつなぐ峰入りはこの鎌倉時代からおこなわれたいた行事であったことが知られます。
明治時代以降は神仏分離令や修験宗の廃止令を背景に宝満山から山伏が離山し、峰入りも途絶えましたが、明治22(1889)年に春峰が復興され、その後、昭和7(1932)年・13(1938)年・14(1939)年に宝満山から英彦山への峰入りがおこなわれ、その後、戦争が激しくなるとともに峰入りは再びおこなわれることはありませんでした。昭和57(1982)年に宝満山の山伏の子孫やこの山を修行の場とする修験者が宗派を超えて結集して「宝満山修験会」が結成され、毎年5月の第2日曜日に宝満山への入峰、5月の最終日曜日に竈門(かまど)神社での採灯護摩供(さいとうごまく)がおこなわれるようになりました。
竈門神社が開創1350年の祭典を行った平成25(2013)年に、満を持して宝満山修験会によって4月25日から28日の4日をかけて、約60kmの往路のみの行程で宝満山から英彦山までの峰入りが再興されました。その際には13人の山伏と、宝満山の史跡指定を同時におこなった筑紫野市と本市の教育委員会の職員が共同で記録のために随伴しました。ルートや行の復興は大変で、長らく行事が途絶えていたため古文書や地名などの考察から、何度も推考することが繰り返されましたが十分には解明できておらず、2つの信仰の山をつなぐ峰入りはまだまだ奥の深い行事であることが再確認されました。

※平成25年の峰入りは太宰府市公文書館紀要年報太宰府学17号(令和5年刊行)で報告しています。

文化財課 山村 信榮(やまむら のぶひで)

広報だざいふ令和5年8月1日号より